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2015.12.03

子供のピュアな知的好奇心を取り戻したい

僕、子供達と遊ぶのが大好きです。

あの人達のシンプルな思考。

目の前で起きている事に対してのシンプルな反応

そして情動を揺さぶられる無垢な笑顔。

 

 

遊んでいるととんでもなく強力な生命力パワーを分け与えてもらえると思っています。

日頃、やけに面倒な思考をしているんだと思います。

 

子供達と接していると複雑に絡まった思考がリセットされて非常にすがすがしい気持ちになります。

とはいえ、メンタルに対しては良質な刺激があるのですが、迫る年波には逆らえず1日こってり遊ぶと肉体はとんでもなく疲弊するのですが…

 

だって、あの人達って休憩しないんですもの…

 

僕の子供が小学生低学年の頃は団地に住んでいて、近所にはたくさんの子供たちがいました。

週末になると外に繰り出して近所の子供達とよく遊んでいました。

 

もーほんと幼稚園児から中学生までみーんな完全に友達でした^^;

 

その遊びにおいて気づくこともたくさんあるのですが、それは別の機会に述べさせていただきます。

ここでは、遊んだことがない子供達の行動パターンについて述べさせていただきます。

 

ほとんどの子供たちが同じ行動をとります。

僕と話をしたことがない子供は初めは遠くで見ています。

 

「こっちこいよー」「いっしょにやろうぜー」っと僕。

 

ノーリアクションだったり、無言で首を振ったりするその子。

 

30分ぐらい経過…

 

だんだん近づいてくるその子

 

「いっしょにやろうぜー」

 

何にも言わずに近寄ってくる子、うんと頷いて近づいてくる子

 

30分ぐらい経過…

 

めっさ笑顔になる子

 

「とーちゃん、なにやってんだよ~」っと馴れ馴れしくなる子

 

ずーっと僕と手をつなぐ子

 

自分の両親や兄弟の事を自慢しだす子

 

 

まーほんと好き勝手始めるもんです^^;

 

 

この行動は本能的なのだろうとつくづく思います。

大人も全く一緒だと思っています。

 

人間の本能は未知のものに対しては不安というネガティブな感情が発生するように出来ているんだろうなと。

生命の安全が確保されていない状態ですね。

それと同時に未知のものに対する知的好奇心も発生するんだろうなと。

 

子供達からすると巨大な大人が子供達と同レベルでワーワーいいながら遊んでいるのは未知の情景ですよね^^;

大人にとってもかも…

 

なので、初めは遠くから様子見するんですよね。

そして、なんか大丈夫そうだぞっという感情とともに、知的好奇心の方が強くなってきて徐々に近づく。

 

もー近づいてきちゃってれば、あとはきっかけだけですね。

もちろん自分で「いれて~」っといってくる子供もいます。

でもジッと黙って見ている子がほとんどなので、きっかけを作ってあげます。

そうするとーあら不思議~もーすっかり友達なのね~

 

これって大人がよく言う「自信がない」っていうのと同性質だと思っています。

大人も同じで未知のもの、もしくは以前、トライしてみてうまく行かなかったものに対して、不安イメージが先行するんですよね。

 

つまり行動した後に何が起きるかイメージできないものに対してはネガティブな感情が先行するようにできているんだろうなと。

 

誰しもが経験があると思いますが、いざ実行してみると大変は大変なんだけど、そこまで毛嫌いするものでもなかったケース。

いやむしろおもろいじゃん。

全部が全部当てはまらないかもしれませんが、行動が消極的になる時って、大体がポジティブなイメージができない時だと思います。

そして、子供の頃よりも発生しにくくなっている未知のものに対しての知的好奇心。

なんでなんでしょう?

 

僕はこう考えます。

社会の様々な組織に身を置くことによって、関わる人の絶対数が増える。

つまり子供の頃よりも組織に所属するにあたり情報処理をしなくてはならない量が圧倒的に増加している。

 

多くの情報処理をせざるを得ない環境におかれる事によって子供の頃よりも脳が疲弊している。

 

疲弊した脳は新しい未知の事。

 

新しい情報を処理することを避けようとするのではないかと思います。

 

 

そこで思うのは複雑に絡み合った様々な情報を『論理的』に処理することができれば知的好奇心を取り戻すことができるのではないでしょうか。

情報処理量を減らすのではなく、整理ですね。

なぜ複雑になるのかというと組織の文化や常識といった論理や合理ではない、不安定な情報がたくさん存在するからだと考えます。

 

僕の勝手な解釈です。

「常識」や「固定観念」というものは本当にやっかいなものだと思います。

根拠がないのに受け入れている事って本当に多いです。

所謂、蓋然性です。

 

「常識」や「固定観念」を無意識で受け入れる際に「しなければならないもの」という解釈で受け入れていること。

 

これは本当に厄介なことだと思います。

僕は日本で生活する際に「しなければならない」は法律だけだと思っています。

その他の組織内のルールや時代毎に変化する常識は「しなければならない」ものではないと考えます。

所謂、倫理観というものだと思うのですが、倫理観は各々が各々で感じ、己の行動に当てはめていくものだと思います。

 

つまり、全員が一致することがないものだとも思います。

 

倫理観を否定しているわけではありません。

日本人の民度は世界に誇れるレベルにあると思いますので、各々が持つ倫理観は非常に重要だと思います。

しかし、倫理観と論理は相反することが多くなると思いますので、倫理観で情報処理をすると辻褄が合わなかったり他者と相容れない場面が多くなると思います。

 

そして、何らかの課題解決において倫理観を軸にした場合、正解不正解の判断が難しくなる点が非常に厄介な点だと思います。

 

課題解決の効率を良くするために人類は法律という仕組みを発明し正解不正解の基準軸を設けることになったのだと思います。

法律も完全ではないですし、それが良いか悪いかでもなく、国という組織を運営していくため、次に進むための基準軸なのだろうと思います。

 

『倫理観は必要悪だと思え』

 

有名な批評家の小林秀雄さんのお言葉です。

 

共同体の効率的な活動において、倫理観は欠かせないものなんだと思います。

倫理観を排除し法律を軸とした合理のみで組織を運営した場合、相容れない論理があった場合(必ずありますよね)、軋轢が生じ最終的には紛争になってしまうのではないかと思います。

 

良否が判定できる軸は法律を基点とした合理だと思いますが、組織で活動をする上で当然、「やった方がいい事」はあると思います。

 

日本人の歴史的なメンタリティからくる組織の文化や倫理観がある。という事を前提として組織の関係者に接することで己の目的達成の効率が良くなったり、組織における己の役割を確立できたり、上述したような紛争を抑止したり。

端的に言うと「得をすることが多くなる」と思います。

 

ぐだぐだわけのわからないことを述べてまいりましたが、重要なのは倫理観や常識は「やらなくてはいけないもの」ではない!事だと思います。

 

ここに囚われていると、他者とコミュニケーションにおいて己が考える常識や倫理観と一致しないことばかり起きるため、組織における人間関係にストレスを感じる機会が多くなると思います。

 

さらに、その関係性維持に伴う情報処理量が飛躍的に増え、様々な課題が乱立し激しく複雑化した事象となってしまうのではないでしょうか。

 

しかも未解決の課題ばかりです^^;

 

そして、冒頭の子供たちの知的好奇心話にようやく戻ります。

まだ、共同体で生活している絶対的な時間が大人より少ない子供達は、まだ情報処理量が少ないと言えるのではないでしょうか。

その分、シンプルな思考ができる。その分、好奇心を持つ余裕がある。

 

目の前で起きている未知の事象に対して、知力を傾ける余力が大人よりは多くなるのではないでしょうか。

 

子供のようなシンプル思考を取り戻す。

子供のような純粋な知的好奇心を取り戻す。

 

すぐに複雑化してしまう社会生活おける日々の出来事は目の前で起きている出来事の本質を理解すること。

そして考える力を鍛え情報処理能力高めること。

 

思考力を向上することができれば、思考の余剰ができ、余計なストレスを抱え込むことなく目の前で起きている事象の”楽しい”を探求することができるようになるのではないでしょうか。

 

僕も子供たちのようなシンプルな思考で目の前の事に潜在している”楽しい”にもっともっとたくさん気づけるようになっていけるよう、思考力を向上していきたいと思います。

 

 

この記事を書いた人

村山弘

村山弘

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