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勉強ってなんでするの?
受験シーズン真っ只中。お子さんが受験だという方も多いのではないでしょうか?
お知り合いの塾の講師の方が、フランチャイズとはいえ
塾を開講するとのことで色々お話を聞いていたところ
子供の前に親を教育する必要がある!っと嘆いておりました…
その方、曰く。所謂、モンスターペアレントが想像以上に多いとのこと。
まー愚痴なんだとは思いますが、そんな話を聞いていて
親向けの塾を開設したらちょっとしたビジネスになりそうな気がしてきちゃいました…
「親もいっしょに学ぼー子供の合格率飛躍的アップ!」とか
「親が学べば合格間違いなし!」
のようなキャッチで宣伝して。
授業は心理学かな。やや、あこぎな気も…
塾講師の方が最終的に何をいいたかったというと
いい大学や大企業に入ることが勉強の目的ではない。だそうです。
うん。通過点だと僕も思います。
しかし、そのゴールはどこにあるのでしょう?
”死”がゴールなのでしょうか?
人間が生きる意味。人間が存在する意義。といった哲学的な思考が問われそうです。
一応、持論はあるので、別の機会に記します。
ここでは「そもそも勉強は何のためにするのか?」を論点にしたいと思います。
35歳くらいに気が付いた僕の持論を記します。
#あくまで低学歴の私の持論なので、賛否両論というか薄っぺらい点が多々あると思います。
ご叱責は、甘んじてお受けいたしております。
何故、日本では小・中・高・大学と勉強するのがスタンダードなのだろう?
僕の解釈は「情報処理能力の訓練をしている」です。
「数学の公式なんて世の中出たら使わね~」なんていう方、多いですよね。
実際に仕事で使う方は限られていますよね。
でも残念ながら学生の時サボると
仕事で同レベルの思考が問われる課題があった場合、
攻略できないってことなんですよね。
もちろん性質は全然違うんでしょうけど、情報処理をするというプロセス自体は
なんら変わりないと思うんです。
逆に学校で仕事で役に立つ授業をやろうとした場合、どうなるでしょう?
仕事の種類はいったい世の中にどれだけあるのでしょうか?
1万?100万?正確には分かりません。
仮に1万種類の仕事があって、それを学校で授業として機能させようとした場合、
いったいどれだけの設備や教師等、そして多くの税金が必要になるでしょう。
不可能に近いのではないでしょうか。
では、何故、義務的に学校にいくのでしょうか?
僕は情報処理の訓練をする場なのだろうと思っています。
インプット→情報処理(思考)→アウトプット
学校ではインプットが教科書と教師の講義や
(もちろん集団生活における他者の関わり等もありますが、ここでは学歴社会と抽象的にいわれる際の仕組みの部分のみに焦点をあてます)
そして生徒が情報処理をする。情報処理は記憶や論理構築、情報統合等々やり方はたくさんありますね。
アウトプットはテスト・通知表等で情報処理能力の訓練をした結果をあらわされるのかなと。
脳味噌が行う事はこれ以外ないかと思っています。
#余談です。
養老さんの本にも書いてありましたが、本質的には
人間という生物本来の情報処理がほとんど。
所謂、無意識に行われる本能で処理されるものがほとんどだと思っています。
つまり学問により制御できる範囲は人間そんなに多くない!
論点ブレますので別の機会に書きたいと思います^^;
そして、学生のうちに訓練できる情報処理の材料や目的は静的なのではないかと思っています。
インプットする知識は世の中の一般論、テストの結果も数値であらわされる。
社会で成果を残そうとすると組織で行動する事がほとんどなので、
自分では制御が非常に難しい「他人」が情報処理時の要素に加わりますよね。
その途端、情報処理できなくなる高学歴の方は僕もたくさん知ってます。
やけに技術知識習得は早いのに、ネゴシエーションをやたらと苦手とする方…
世間では、こういう人達の事を指して、学歴なんかカンケーねーって言われるんですよね。
しかし、恐らく比率として情報処理能力が低い人のほうが、
所謂、仕事が出来ない人になる割合は多いのではないでしょうか?
僕の勝手な解釈ですが、「仕事が出来る人」って学歴云々とは
関係がない比率で一定数存在しているのではないかと思っています。
んーよく仕事で多用する8:2の法則でいう2割程度なのかなと。
逆にふつーとか仕事が出来ない人と言われる人の方が割合が多いのではないでしょうか。
そうした社会適合性と情報処理能力を分離して言われる場面が多いですが
社会適合性も情報処理能力の一環であると僕は思います。
学生時の所謂、勉強には、目的達成のプロセスに他者のインプットが少なく(ゼロではないですね)
社会における目的達成には多くの利害関係者の非常に人間臭い要素含んだ可変のインプット情報が含まれる。
仕事と学生時の勉強。両者のインプット情報の違いは静的か動的といった性質の違いなのかと思います。
動的な情報処理の訓練は学校で学ぶのは中々難しいですよね。
部活やレクリエーションでもある程度、経験することはできるのでしょうが
ことさらビジネスにおいてのものと性質は大分変りますよね。
個人の目的達成(大学合格、大企業入社等々)と複数人の集合体である組織の目的達成。
個人と組織。1人と複数。といった違いでしょうか。
目的を達成するという本質的なプロセスは変わらないのですが…
複数の人間が関連すると、ほんとーに様々な考え方があり、各人の感情は一定ではないので
考え方もブレる場合があります。正に動的!
そして、その動的なインプットの情報処理能力の訓練はどこで行われるのかというと
実際に社会に出た時が一番効果的なんでしょうが、初めから成果を出される方も稀にいらっしゃいますよね。
まー部活やサークルなんかも一定レベルの効果はあるのでしょう。
そういった他者との共同生活の経験を経る過程で訓練されていくのだろうと思います。
よって、子供たちが自立するまでは最も長く時間を共有する”家族との関係”が最も影響が大きいのではないかと思っています。
でもでも、僕の持論は訓練ではどーもならない宇宙の法則的(パレートの法則)な
もしくはDNAレベルもあるのかなと。
社会で成果を残しやすい思考パターンっがあって
それを持った人の比率は2割程度なのではないかなと思っています。
それをいっちゃーおしまいだー
とはいえ、非常に回りくどくなりましたが、
やっぱり20代前半まできっちり情報処理能力の訓練をしていた方が
社会に出てめちゃくちゃ有利だと思うんです。
高学歴であればあるほど、高度な情報処理訓練をしたので、
静的ではあっても情報処理能力は高いと言えると思うんです。
低学歴の僕はもちろんこれに抗うため、学ぶことを止める気はさらさらないですが、
若い頃の時間をロストしたハンデは、やっぱりあると思うんです。
なんのハンデかといえば、生きていくうえで気づきを得る量のハンデです。
日常的に目の前で起きている事、当たり前が如何に偶然の積み重ねによって
起きた奇跡的な事なのか。これに気づけること。
”気づく”という知識インプット。知識の集合・組み合わせを行う思考。
思考した結果、動機付けされる、次の”行動”
そして行動するとまた新しい気づきをインプットできる。
司馬遼太郎が新井白石と吉田松陰を指して書いた言葉なのですが、
「学問とは、新しい事を知る態度である」
人類が思考するという機能を得た以上、この「新しい事を知る」という事が
人類にとってもっとも快感となる事なのだろうと思っています。
日々、多くの気づきを得ることができると、必然的にやりたいことが多くなったり
よりやりたいことの動機付けが強くなったりすると思います。
そうそう、僕は勉強って言葉を極力つかわないようにしているんです。
勉め(つとめ)、強いる(しいる)ってなんかきつそうで…
なので、学ぶとか学問って言葉を意識して使うようにしてます。
だって、新しい知識を得ることって本当に楽しいことだから、
学ぶは本当に楽しい事だと思ってます。
日本という国は世界的に見ても成熟した社会システムを持った国だと思います。
その高度な社会システムの中で、大学卒業するまでは、勉強のみに注力しても
誰にも怒られないんです。
150年前であれば、日本でいう未成年も立派な労働力だったわけです。
学ぶ事は楽しい事。たくさん学べば、より多くの気づきを得れるようになる。
より多くの気づきを得れれば、より楽しめる行動ができるようになる。
勉め強いるではなく、人生を豊かにするための学問である。
脳が最も活発に機能する20代までに情報処理能力を鍛えておいた方が
人生が豊かになる多くの気づきを得ることができる。
学ぶ意義はこのあたりにあるのではないかと僕は思っています。
結びのメッセージ
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